こんにちは、ボウズィこと大島有一です.
8月8日(土)、りんざば円坐と題して非構成のエンカウンターグループを開きます.
円坐やエンカウンターグループで守人(ファシリテーター)を務めるとき、自分がやりたいこととも言えるし、引き受けた役割のように感じられるとも言えることがあって、その一つは場の中で語られた言葉をていねいにお聴きしていくことです.
この「話を聴く」とは何なのかということについて思い巡らすとき、日本地図を、特に三陸のリアス式海岸あたりの海岸線を思い浮かべることがあります.
地図上の海岸線は拡大すればするほど入り組んだ形状が現れてきて、例えばその長さを測ろうとすると果てしなく長くなっていきます.大きな縮尺では無視できていた小さな入り江や岩礁などが現れ、その凸凹も測定にかかるようになるからですが、特に三陸などの海岸線ではそれが顕著です。
人の話を聴くということ、そしてそれを自分の中に収めていくということは、海岸線を辿るようなものかもしれないと思っています.地図上で海岸線をざっくりなぞるように全体の形状を把握するだけではなく、その場で歩みを進めて、小さな砂浜や桟橋も一緒に眺めていくような、そのような心持ちであることが大事なのではないかと感じています.
そこには地図にも載っていないような小さな入り江があるかもしれない.入り江は朝と夕暮れでは違った表情を見せるかもしれない.干潮時にはゴツゴツした岩肌があらわになるかもしれない.見たこともないような魚が住んでいるかもしれないし、底は汚泥で満たされているのかもしれない.汚泥の中にはきらきら光る石ころが埋まっているかもしれない.
そのように辿っていくと、これは海岸線の長さのように果てのないものだし、むしろそうしたところに実体というか、その人そのもののありようが存在し、刻まれていることがあるように思えます.
ただ事実を事実として、話の枠組みを枠組みとして捉えるのみではなく、自分はそのように人の話を聴くよう務めたいし、場の中で時折見え隠れするそれを見届けていきたい.そしておそらく、自分もそのように見届けてもらいたいとどこかで願っているのだと思います.