「円坐とエンカウンターグループってどう違うの?」とこれまで何度も聞かれてきて、そのたびに「大きな違いはないですよ」と答えてきたけれど、少なくとも目白で開いているこの場と円坐の間には、やはり違いはあります.
これまでは、自分にとってどちらも大切な場である両者をなんとか統合したいという思いがあってもがき続けてきたけれど、もがけばもがくほどどちらからも離れていくような感覚に陥っていました.自分は「違いはない」と言いたかったし、そう思いたかったけれど、今はただ「違いはある」という地点から出発したいと思います.
目白がどんな場かを表現するのに「夜の露天風呂」との言葉を使ってみます.そこにはたまたま居合わせた人々が何人かいて、ひとりひとりは湯船に浸かったり、あるいは湯船の外に出て涼んだりをしている.このときお互いが見ず知らずの存在であったとしても、どこかで多少なりともその場を介してのつながりのようなものを感じるように思えます.
例えば「夜の公園」では同じメンバーでもまた違った雰囲気になることを考えれば、このつながりの感覚を生んでいるのは、お風呂の存在とそれによってゆるむ心身の感じと言えます.このつながり、場を共有している感じ、リラックスした雰囲気が、円坐の場のそれよりも目白には厚く存在しているように思えます.
目白の場は、大きめの掘りごたつを囲み、照明を落とした中で10個ほどのろうそくを灯して行います.この炎は焚き火ほど強い影響を及ぼさないけれど、そこに集う人々を自然に結びつける感じや、身体の内にも外にも向かう静かな開放感のようなものを場に生んでいるように思えます.
こうした環境の違いによって、場の力点がシフトしていく感覚があります.円坐はろうそくのような舞台装置がない分、それぞれが一人でいる感じや個が立ち上がる感じが自然と強まり、そこから「自分自身に対して正直であること」「ただ自分が自分としてその場にいること」「その上でどう人と関わっていくかということ」といった営みに、時間の経過と共に自然と力点が移っていく.
目白は上に書いたような雰囲気の中で、各自が自分の中に潜ったり場に戻ったりを繰り返していく.一人になれるけど、どこかつながりのようなものも感じられる感じ.どこかつながっている感じの中で、一人にもなれる感じ.そうしてそれらの感覚を味わい共有することに焦点が当たっていく.
もちろん回によって異なる場になるし、同じ場であっても一人一人感じていることは違うけれど、大まかにそうした傾向の違いがあるように思えます.
自分がなぜ照明を落としてろうそくを置くようになったのか、そこに何か目的があるとすればどのようなものかといったことは、また書いてみたいと思います.目白のこの場、一度味わいにいらしてみてください.