先日父が亡くなった.以前の案内文にも書いたが、結果的に意識のはっきりした状態の父と最後に過ごすことになった病室での2時間は、自分にとって円坐やエンカウンターグループで時折感じるそれそのものだった.
父の死後、葬式や手続きなどでバタバタとした日々を過ごしていたが、一段落して実家に帰ると玄関の脇のバラの木に花が咲いていることに気づく.出迎えてくれた母が花を指さし「バラが三輪咲いたよ.家族と同じ数だね」と言ってニッと笑った.兄弟姉妹のいない自分は家を出るまでずっと三人家族だった.
父の死はかなり前から予期されたものであったし、その死に対してあまり大きなダメージを感じてはいなかった.胸のあたりに何か空洞が開いたような感覚はあったけれど、悲しい、さみしい、つらい、といったような感情が大きく動くことはなかった.だが三輪のバラの花を見て母の言葉を聞いたとき、そしてちょうど父が亡くなったころにつぼみが開き始めたであろうことに気づいたときには言葉にならなかった.胸の空洞に乾いたせつなさのようなものがゆっくりと流れ込み、全身がそれで満たされるのを感じた.
人が存在した証しとして、移ろいやすく儚くもあるけれども確かに刻まれるもの.自分はそうしたものに強く反応することを思い出すと共に、自分が円坐やエンカウンターグループに参加し続け、開き続ける理由のひとつは、場の中で時折見え隠れするそれを見届けたいと願う気持ちのあらわれなのかもしれない.
7月4日(土) 立川の場ではチャンエツと共に場を見守ります.お問い合わせやお申し込みはこちらまでお願いします.