「円坐は修行の場、エンカウンターグループは癒しの場」とは誰の言葉だっただろう.そもそも両者にそれほど大きな違いはないけれど、そうした色合いの違いを持つことを全て否定はできないように思う.
エンカウンターグループの発展に大きく寄与したカール・ロジャーズはこう語っている.「あらゆる集中的グループ経験に共通にみられるすばらしい点のひとつは、多くのメンバーが苦痛と悩みを持っている人に対して、援助的・促進的・治療的態度で接する自然で自発的な動きが見られることである」.
これを癒しと呼ぶのかはわからないけれど、実際こうした場面をエンカウンターグループ中に目にすることは少なくなくて、それによって何かが癒えていくような体験につながる人もいる.それは円坐も同様なのだけれど、一方で円坐では、このような関わりが生まれたとき、そこからあえて距離を取ろうとする動きのようなものを目にすることもある.
例えばそれは、誰かの誰かに対する関わりに対して、
「頼んでもいないのに癒そうとしている」
「どこかに連れて行こうとしないで」
「何か操作しようとしている気がする」
といった形で表明されることがある.時として厳しさを伴って発せられる言葉だ.
困難な状況にある人を目の前にしたときに湧き上がってくる衝動、なんとか力になれたらという思いは、多かれ少なかれ多くの人が経験したことがあるものだと思う.しかしながら実際に人が人に援助的に関わろうとする場合、その動機は不透明であることも多い.
例えば、
人の力になりたいのか、それによって自分が満たされたいのか.
人の話が聴きたいのか、話が聴ける自分になりたいのか.
結局すべては自分のためなのかもしれないが、本当にそれだけなのか、など.
時として本人も気づかなかったり、わからなかったりすることがあるように思う.
どのような動機でも構わないと思うし、そもそも良し悪しの問題ではないけれど、それに無自覚なまま人に関わると不遜な振る舞いにつながりかねなくて、上に挙げたような応答はそうしたことが背景にあって生まれるようにも思える.
そして付け加えるならば、そうした動機の不透明さ、それに対する無自覚さ、それらに対する拒否反応、いずれも自分自身の中に見え隠れしているものであることにも気づく.
癒しやセラピーや援助といったものは、魚介類のようなものかもしれないと思う.取り扱いを間違えるとすぐに生臭くなる.新鮮だったり適切に調理されたものが素晴らしくても、そもそもそれを好まない人もいるという点においても.
自分が誰かに援助的に関わる機会があるとしたら、本能だけで動きたいと思う.本能と呼ぶのかはわからないけれど、自分の中の余計なものや生臭いもの、それらを捨てていったときに残るもの.何が残るかわからないし何も残らないかもしれないけれど、それでも何かが残るのならば、そこから生まれる動きで人に関わっていきたい.
そしてそのことは、自分がそうしたもので関わってほしいとどこかで願っていることの現れなのかもしれないとも思う.